余命数か月の母を在宅介護の上、自宅で看取りました。
在宅医療の話をお医者さんから説明を受けたとき、もう私の前には在宅介護しか選ぶ道は無いようでした。「大事な母が目の前で亡くなっていく様を見る日々なんて、私に出来るのかな?」それが一番最初の不安でした。でもそんな事は言っていられません。母を看るのは一人っ子の私しかいなかったのです。
これまでの時代は、息を引き取る時は病院が多かったと思います。亡くなる寸前に病院から電話がかかってきて、慌てて病院へ行くと「死に目に会えるだろうか?」そういう時代だったと思います。数年前に亡くなった父の時もそうでした。
でも時代は変わりました。高齢者増加の時代で、政府は自宅で看取ることを勧め、病院は入りたくても高齢者の為の空きベッドは足りず、入院したくても出来ない時代となりました。
私の介護が始まった時には、母は既に「いつ亡くなってもおかしくない状態」と言われていました。また「これから色々なことが起こります」と説明を受けました。しかし、目の前の母は、至って元気。それまでと変わらずでした。
そんな私が「あたふたと経験したこと」、また慣れない介護で母との関係がこじれた私が、介護が始まる前から知っておきたかった「親を家で看取る時の命の知識」をまとめています。
進行がん末期の母の介護
お医者さんからは「今日の夜だって急変するかもしれません」と 癌と診断された日からずっと言われ続けた中での介護。とはいえ、レントゲンを見たって、説明を聞いたって、母が弱っている姿を見ない限り その死を信じられないのが家族というもの。それはもしかしたら、母が亡くなる日を想像することを無意識に 拒んでいたのかもしれません。
今 想い出を振り返れば、 私は毎日 母のお世話をしていたからこそ、母が亡くなる日までの日数を 本当は身に染みて感じることが出来たはずでした。最期となる日を把握すること出来たはずの出来事は、今思えば着々と私の目の前で起こっていたのです。
亡くなる前にその「起こる出来事」を知っていれば、何があっても母に寄り添い、もう少し母に優しく接することができたかもしれない。今はそれを悔やんでいます。(※なお、母は進行のとても速いすい臓がんだったため、ほかの病気やがんでは、母のようにあっという間にその時を迎えることは無いと思います。)
亡くなるまでに起こること
私は医療従事者ではないので、平均的なことは分かりません。ただ、当時の「お医者さんや看護師さんが教えてくださった言葉」と、後に知った「亡くなる前に起こること」を照らし合わせると、介護経験のない私であっても、知っていれば母の死の日を自分自身でも予期、そして納得できた事があると気づきました。
愛する家族との大事な刻一刻と迫る残された時間を、しっかりと認めるための知識を私は持っていなかった故、精神的に上手に対応できませんでした。何が起こっていたのかというと。
診断を受けてから最期の日までに起きたこと
【母が亡くなる2か月半位前】
「母の場合は」ですが、亡くなる2か月半くらい前から血圧が下がってきていました。まだ診断されていませんでしたが、そのとき既に末期のすい臓がんでした。まだまだ元気にデイサービスに行っていたころです。デイサービスでも一人でお風呂も入れました。しかし血圧だけが下がり始めていました。その後も 少しずつ下がり続けていきました。何が起こったのか私自身も分かりませんでしたが、どこか悪いのかな?と心配はしていました。
【亡くなる2か月位前】
すい臓がんの診断を受け、すぐに在宅医療が始まりました。とはいえ、まだ母は 日中もベッドに座って起きていました。話もしっかりと出来ました。いたって元気で、それ迄と変わりはありませんでした。でも自分から「買い物にいこうかぁ~!」と私を外出に誘ってくれたのは、この時が最後となりました。
【亡くなる半月位前】
車いすで散歩にも行けていました。しかしそれが最期の母との外出になりました。その2~3日後にはベッドから車いすへの移動も、私一人の介助では行えないほどになり、当然トイレに連れていくことも出来なくなり、ベッドの上でのオムツ生活となりました。トイレで排せつできなくなることは、寿命とは関係ないことがほとんどかと思いますが、癌であった母にとっては急変となった事態でした。
【亡くなる10日位前】
薬が飲めなくなりました。一度に9錠飲んでいた母が、1粒ずつしか飲めなくなり、そのうち錠剤は潰してあげないと飲めなくなりました。当然、食事も摂りずらくなりました。看護師さんによると、母は末期になっても 随分と食べられる人だったようですが、さすがに食が細くなりました。食事だけでなく水分も摂りずらくなり、とろみをつけないとむせるようになってきました。
【亡くなる1週間ほど前】
1週間ほど前からは、とろみをつけた水分を若干摂るだけとなり、薬は全く飲めなくなりました。寝たきりになり、起きている時間が少なくなってきました。痰が大量に絡むようになり、吸引をしても、追いつかない日々となりました。そして食事を受け付けなくなりました。看護師さんからは、食事が摂れなくなったら1週間ほどでお迎えが来るだろうと言われていました。
【亡くなる数日前】
寝てる時間が長くなり、起きているときの せん妄が激しくなってきました。それまでは、ちょっと朦朧としているな‥位だったのですが、明らかに昔を思い出し、現在と過去が分からない話をしたこともありました。母のその会話は、それ迄の朦朧とした会話とは違い「見えている景色も内容」も、すべてが母が幼少期に過ごした田舎の話であり、ありありと「いまここで、昔を生きている」ような語り口調でした。
高齢者てんかんも患ったことがあった為、私自身は当時、事の重大さに気づいていなかったのですが、後にこれは死が近づいている前兆なのだと知りました。そしてそれが母が「会話らしい会話」をした最期となりました。とても元気に楽しそうに看護師さんに話しかけていた姿は、儚い思い出です。その直後からは ほぼ眠り続ける毎日となりました。
【亡くなる2日程前】
看護師さんに確か「脈が取れなくなってきている」と言われたと思います。そして尿も出なくなってきました。「今日か明日には…」と説明を受けました。そして実際、その2日後、母は息を引き取りました。母は「眠るように」亡くなりました。
旅立つ人との時間を大切にするために
素人の私は、それまでも看護師さんやお医者さんが、「いつお迎えが来てもおかしくない」と教えてくださっていたものの、なんとなく現実味なく日々を過ごしていました。ただただ目の前の母の介護で精神的にいっぱいいっぱいで、残された日々を大事にすることよりも、介護をこなすだけしか余裕がありませんでした。
しかし、今思えば2週間くらい前、薬を飲めなくなってきた時点から、もっと母と話をしていればよかったと思います。あの時ならまだ、母と語り合えたと思っています。介護で慌てふためく時間を、もう少し母との想い出の時間に変えていたら・・と悔やんでいます。
介護は日々、目まぐるしい忙しさです。そして眠り続けるような日々になってしまったら、もう会話もできません。いつが最期の会話になるかは分かりません。もちろん病気にも寄るかもしれませんが、特にすい臓がん末期は予後が悪く、進行が速いと言われている病気であったため、私の母との時間は物凄い速さで駆け抜けてしまいました。あっという間でした。
母の介護を終えて想う事
痰が絡んだり、薬が飲めなくなったり、が始まった時には、残された時間は、本当にわずかかもしれません。食事が摂れなくなった時には、もう時間はありません。そして酷いせん妄を起こし始めたら、いつ昏睡状態にはいるかも分かりません。声が聞ける最後のチャンスかもしれません。
母は酷いせん妄のあと殆ど眠っていたので 私は一緒に住んでいながらも、ほとんど母と話すことは出来ませんでした。最後に母と会話をしたのは、看護師さんとヘルパーさんでした。死の瞬間まで一緒にいたのは私一人だったにもかかわらず、最後の会話は私ではなかったのです。
せん妄を起こす中、看護師さんと楽しそうに話していた母の姿と声は、これからもずっと忘れることは無いと思います。また、後にヘルパーさんから聞いた母の言葉(←これは母が私を嫌っていたことがはっきりわかる言葉だった故、ここでは辛すぎて文字にできません。)その母の人生で最後となった言葉も忘れることはありません。
母の最期にたった一人立ち会った私が、母にとって最期の会話の相手でなかったこと、母が発した最期の一言が、ヘルパーさんに発した「私にとっては辛すぎた言葉」であったことは、私にとって一生の心の傷です。
一人介護の失敗
結局私は、母との最期の時間を大切にできなかった。一人介護はあまりにきつく、介護に追われるばかりで母との時間の少なさを、しっかりと大切に感じることが出来ませんでした。
介護が大変で母に投げかけてしまった冷たい言葉を後悔しています。介護で眠れなく朦朧としていた私が、夜中のオムツ交換にぶつくさ文句を言ってしまった事も後悔しています。数えれば後悔ばかり。
だから…
ここまで読んでくださった方へ
ここを最後まで読んでくださった貴方様が、どうか大切な人との残された時間が暖かな時間になりますように。そして同時に、なによりご自身を大切にしてくださいね、と思っています。一人で背負い無理をしながら介護をしても、私のように反対に親から嫌われてしまう可能性もあります。そうなれば、私のように介護の日々がトラウマになってしまいます。近くに手伝ってもらえる人がいれば、少しでも甘えて、一人で抱え込まず自分に優しくしてあげてくださいね。
パソコンのこちらから、ここを読んでくださった方の日々が 幸せに変わること を祈っています。